講座・イベント

大阪府内被災者相談支援協議会主催「福島差別を考えるシンポジウム」(2011.12.11)

2011年12月21日

福島差別を考えるシンポジウムが12月11日、大阪市中央区の難波別院(南御堂)同朋会館講堂でひらかれました。シンポジウムには約200人の方が参加。参加者の中には、福島県南相馬市やいわき市から避難された方も参加しました。

子どもが避難先で「放射能がうつる」などといじめられたり、福島ナンバーということでガソリンの給油を拒否されたりする福島県民を差別する事例が相次ぎ、このような偏見や差別の現実を、社会に問うために大阪府内被災者相談支援協議会が主催。差別禁止法の制定を求める市民活動員会も、このシンポジウムに協力団体として参加しました。

シンポジウムでは福島県南相馬市長の桜井市長、9歳の時に広島原爆で被爆した飯田清和さん、原爆被爆者や原発労働者の問題に取り組む阪南中央病院の村田三郎副院長が参加し、同市民活動委員会の共同代表の奥田均近畿大学教授がコーディネーターをつとめました。

桜井市長は津波や地震の被害の様子をスライドで紹介しながら、震災直後から現在までの南相馬市の様子を紹介しました。「南相馬市の人口7万人が一時は1万人を切った。原発事故で避難した人の4人に一人は南相馬市です」と震災、津波だけでない南相馬市の原発事故の深刻さを話しました。

桜井市長は「差別の言葉には違和感がある」としたうえで、横浜に避難した子どもは『福島が来たと』と差別されて泣いて帰ってきた。地元では結婚しない、子どもを産めないなど、と今福島で起きていることは話します。桜井市長はこうしたあちこちで起きている偏見や差別に対して「福島県民は違う人になったのか」「隠して生きなければいけないのでしょうか」と訴えました。全国には54基の原発があり、その周辺自治体にも起こる可能性があること。いつでも誰でも起こりうる問題であり互いに理解する必要性を訴えました。

9歳の時に原爆ドームから1.3キロの国民学校で被爆した飯田さんは「ピカドンの子、あっちいけ」と言われた体験を話しました。今みたいな放射能に関する情報はなかったが、子どもながらに将来の結婚のことを考えていたこと。結婚して11年間、彼女に自分が被爆者であることを言えなかったこと。子どもの出産に立ち会えなかったこと。親戚や友人には、59年間貝になっていたと話されました。その59年目に広島に戻られたことの思いを話しました。飯田さんは、広島の被爆体験者として、福島の人へ強い意思で生きていくメッセージを贈られました。

阪南中央病院村田副院長は、震災は命と暮らしと心を崩壊させると話し、放射能に対する恐怖・不安は、正確な情報・判断材料が提供されていないことを指摘しました。情報の提供と責任が明確になれば、差別が起こる素地が少しでもなくなるのでは、と話しました。そして、福島原発事故は想定外としているが、地震大国である日本には54基の原発がある中で、同じ立場になる可能性があること。私たちの互いの立場や被害、気持ちを総合理解する大切さを話されました。

最後に奥田近畿大学教授から、「地震や津波、原発事故が直接福島差別を起こしているのではなく、それをきっかけに福島県以外の私たちが福島差別を作っている。私たちに突きつけられた問題であること」を訴えました。そして、いろんな考えがあるとしたうえで「福島の人から放射能はうつらない、安全だから差別をしてはいけない」という論調に問題提起しました。それは裏を返せば、感染するのであれば、差別・排除してもいいということ。HIV問題から見ても、例外なく差別・排除をしてはいけない。食品の安全性と差別の問題が混線しているのではないかと疑問を投げかけました。また真っ先にこの問題に取り組んだ広島・長崎の被団協(http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/)の取り組み、水俣市長からの「水俣病公式確認から55年目を迎える水俣市からの緊急メッセージ(http://www.city.minamata.lg.jp/740.htm)」を紹介しました。

このシンポジウムが、福島差別・原発問題を考えるきかっけとして、取り組んでいきたいとまとめました。

 

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